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戦争中、日本のコメ消費はどう推移したのでしょうか。

明治の30年ころから日本はコメの生産に行き詰まり、タイ米を輸入し始めます。
大正時代は日清・日露戦争で占領した台湾や朝鮮でせっせとコメを作りました。

1939年(昭和14)
国内消費の約2割が台湾&朝鮮産のコメです。
満州事変以降、日本は中国の東北地方を占領し、満州国を作りました。
そこに総計78万人もの人間を送り込み、開拓を始めます。
これのおかげでやや質が悪いものの安価な米が大量に手に入ったのです。

1940年(昭和15)
日本のコメの消費はピークに。
計算では1人が年間で152キロ。1日なら3合~3合半のコメです。
日中戦争開始直後までは日本人はかなりの量のコメを食べているという事になるのです。
ちなみに現代人は1人で年間65キロ。

ですが日中戦争が始まり海路での輸入が難しくなり、
そもそも運搬船の用意自体が難しくなるとコメの入手が難しくなります。
そこで政府は「海外のコメを諦め、節米すべし!」という方針を打ち出します。
当時は消費量の約25%が海外のコメでしたので、
節米目標は二割五分!コメ輸入に使う船を鉄鉱石輸入に使えば、巡洋艦が100隻増産出来る!
…という触れ込みでした。かくして日本のコメ消費はどんどん落ちて行きます。

1941年(昭和16)
政府は摂取栄養の目標量を決める。
主食は1日当たりコメ400g・麦などが100g。
半年後、大都市でコメが配給制になりますが栄養摂取の目標はどこ吹く風。
配給されるコメは11歳~60歳ですと1人1日2合3勺(330g)。

この年の12月、真珠湾を攻撃し太平洋戦争が始まります。
以降は書きませんが食料事情は悪化するしかないのです。

結局敗戦寸前の1945年(昭和20)前半には1人1日、コメなら2合1勺…にまで減ります。
コメなら…という部分にに注目して下さい。
コメなら…という事は、米以外もあったという事です。
というか、コメの配給は10日~15日分程度あればいい方。
あとの分は雑穀、乾麺、何だか分からない雑粉、
そして海草麺なる謎の食べ物が配給されたのです。
これは海草粉末を押し出して作った真っ黒な麺で、
水で2時間戻さないと食べられない上にカロリーはほぼゼロという強烈なモノ。
この頃国民の摂取しているカロリーは1500~1800キロカロリー。
これがどれだけギリギリなカロリーかと申しますと、
人間は絶対安静で過ごしても1200~1500キロカロリーは消費する、と言えば
その悲惨さがご理解いただけるでしょうか。
栄養に至っては語るべくもありません。
(映画「火垂るの墓」で節子が死んだのはこの年です)

今日のおまけ
よく「疎開先でサツマイモ入りご飯を食べた」…という話を聞きますが、
現代の混ぜ御飯系レシピでは米と具材が5:1の割合です。
戦時はこれが2:1とか1:1だったそうです。
コメとサツマイモが1:1なんて…「サツマイモの周囲に米粒」のレベルですよ。

明日の日記は「らいす論・4」
戦後から現代までサクッと。
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