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近所のコンビニが、深夜~明け方まで未成年の入店を禁止してた。
青少年ナンタラ条例だか何だか。
効果あるんだろうか。

生まれて初めてぺヤング焼そばを食べる。
断然UFO派なんだが…うーんコレはコレで。

愛車のドア取っ手部分にまた蜘蛛が巣を張る。

キュウリの塩もみの塩加減を間違う。
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ママンが体調に違和感を覚えたらしく、診察を受ける。

そしたら1回2時間の点滴を1日2回x5日間、の刑だそうで。
…外から見ている限りどこも悪く無さそうなんですけれど。
でもこれ相当ヒマだな。



…ついにメガてりやきが発売になりました…。
左下…ノーマルてりやき
右下…フィレオフィッシュ
右上…メガてりやき

メガてりやきは崩れないよう、紙製の輪に入っています。





例によって素早く作業。
崩れないよう竹串を通し、真っ二つに…。





ノーマルてりやきの断面はこう。
パン+マヨ&野菜てりやきソース&肉+パン





そしてメガてりやきはこう。
パン+てりやきソース&肉マヨ&野菜+パン
      +てりやきソース&肉+チーズ+マヨ&野菜+パン

どうやらドナルドの野郎は本気のようです!
しかし私だって負けてはいません。
数日前から体調を整え、朝食を抜いてこの場にいるのです。
それでは 戦 闘 開 始!
生姜とニンニクが隠し味・甘いテリヤキソースはおなじみのアレ。
で、白いソース=マヨネーズ…と思っていたんですが、
公式サイトでは「スイートレモンソース」と言っています。

メガマックの時もそうですが、味には特に新発見はありません。
メガマックとの大きな違いは肉(パティ)の質。
てりやき用のパティは柔らかい肉質です。

メガてりやき+ノーマルてりやき+フィレオ半分、までは意外にすんなり食べました。
…最後のフィレオ半分でさすがに飽きましたが
てりやき系がしっかりした味ですんで、
あっさりしたフィレオでは合間に食べるにしてもちょっと力不足。
フィレオじゃなくてノーマルハンバーガーならきっと完璧だったに違いない。





悪魔は去った!
実は隣の席に主婦と息子くんが座ってましてね。
真っ二つ作業中からずーっとこっち見てるの。…そりゃ見るわな。
いきなりまな板と包丁でハンバーガーをブッた切り、
しかも一人で完食してたんだから。

カフェ・オ・レ  …182キロカロリー
フィレオフィッシュ…353キロカロリー
ノーマルてりやき…538キロカロリー
MEGAてりやき …903キロカロリー
しめて1976キロカロリー!!
これはチキンラーメン5食分に相当します。
長い戦争が終わりました。
その後コメはどういう状況だったのでしょうか。

1945年(昭和20)8月、敗戦。
この敗戦の瞬間はコメの端境期(はざかいき…収穫前で一番不足している時)だったため、
主食としてのコメの確保は絶望的でした。
コメは入手しやすく食べやすい事・消化しやすい事が特徴。
ガツガツモリモリ食べて、栄養素をかき集める事に意義があるのです。
ですが入手がままならず量を確保出来ない状況ではそれは叶いません。
この頃はイモ類や野菜類で飢えを凌いでいたようです。

戦後、徐々にコメの生産は回復しますが、
コメを大量に食べるべし!という方向性は消えていきました。
コメ以外の食材の調理法が進化した…であるとか
単一食材に頼る事の危険性に気づいた…であるとか
進駐軍のハイカラな料理が注目を浴びたから…であるとか
様々な説がありますが、スッキリした解読は出来そうにありません。
ですがコメ離れが始まったのは確か。

ちょっと乱暴ですが「1人1日当たりの摂取量」を20年ごとに見てみましょう。

1955年(昭和30) コメ 346g 卵 11g 乳製品 14g 肉類 12g 
1975年(昭和50) コメ 248g 卵 41g 乳製品103g 肉類 64g
1995年(平成7 ) コメ 167g 卵 42g 乳製品144g 肉類 82g

…こうして並べると歴然としていますね。
コメ消費は今年あたり1日当たり160gを切っているはず。
終戦間際の配給、1日当たり2合1勺(315g)と比較すると、
現代人はその半分しか食べていないのです。
(もっとも、配給があるのは2回に1回ほどだったようですから、
実質現代の摂取量は当時と同じ量といえそうです)

もはやコメをガツガツ食べ、そこに含まれるカロリーと栄養素をかき集めるという時代ではない…
というのがはっきり分かります。

コメ以外から十分なカロリーと栄養素を摂取出来る(はずの)現代では、
昔のようにコメをドカドカ喰うのは不自然になったのかもしれません。




さて、長きに渡ったらいす論も今回で終了で御座います。
皆さんが少しでもタベモノに興味を持って頂いたなら書き手冥利に尽きます。
書いている最中に新たに見つけたネタもありますが、それはまた別の機会に。
戦争中、日本のコメ消費はどう推移したのでしょうか。

明治の30年ころから日本はコメの生産に行き詰まり、タイ米を輸入し始めます。
大正時代は日清・日露戦争で占領した台湾や朝鮮でせっせとコメを作りました。

1939年(昭和14)
国内消費の約2割が台湾&朝鮮産のコメです。
満州事変以降、日本は中国の東北地方を占領し、満州国を作りました。
そこに総計78万人もの人間を送り込み、開拓を始めます。
これのおかげでやや質が悪いものの安価な米が大量に手に入ったのです。

1940年(昭和15)
日本のコメの消費はピークに。
計算では1人が年間で152キロ。1日なら3合~3合半のコメです。
日中戦争開始直後までは日本人はかなりの量のコメを食べているという事になるのです。
ちなみに現代人は1人で年間65キロ。

ですが日中戦争が始まり海路での輸入が難しくなり、
そもそも運搬船の用意自体が難しくなるとコメの入手が難しくなります。
そこで政府は「海外のコメを諦め、節米すべし!」という方針を打ち出します。
当時は消費量の約25%が海外のコメでしたので、
節米目標は二割五分!コメ輸入に使う船を鉄鉱石輸入に使えば、巡洋艦が100隻増産出来る!
…という触れ込みでした。かくして日本のコメ消費はどんどん落ちて行きます。

1941年(昭和16)
政府は摂取栄養の目標量を決める。
主食は1日当たりコメ400g・麦などが100g。
半年後、大都市でコメが配給制になりますが栄養摂取の目標はどこ吹く風。
配給されるコメは11歳~60歳ですと1人1日2合3勺(330g)。

この年の12月、真珠湾を攻撃し太平洋戦争が始まります。
以降は書きませんが食料事情は悪化するしかないのです。

結局敗戦寸前の1945年(昭和20)前半には1人1日、コメなら2合1勺…にまで減ります。
コメなら…という部分にに注目して下さい。
コメなら…という事は、米以外もあったという事です。
というか、コメの配給は10日~15日分程度あればいい方。
あとの分は雑穀、乾麺、何だか分からない雑粉、
そして海草麺なる謎の食べ物が配給されたのです。
これは海草粉末を押し出して作った真っ黒な麺で、
水で2時間戻さないと食べられない上にカロリーはほぼゼロという強烈なモノ。
この頃国民の摂取しているカロリーは1500~1800キロカロリー。
これがどれだけギリギリなカロリーかと申しますと、
人間は絶対安静で過ごしても1200~1500キロカロリーは消費する、と言えば
その悲惨さがご理解いただけるでしょうか。
栄養に至っては語るべくもありません。
(映画「火垂るの墓」で節子が死んだのはこの年です)

今日のおまけ
よく「疎開先でサツマイモ入りご飯を食べた」…という話を聞きますが、
現代の混ぜ御飯系レシピでは米と具材が5:1の割合です。
戦時はこれが2:1とか1:1だったそうです。
コメとサツマイモが1:1なんて…「サツマイモの周囲に米粒」のレベルですよ。

明日の日記は「らいす論・4」
戦後から現代までサクッと。
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