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「孤高の500勝投手」サイ・ヤング 1867~1955
メジャーリーグのピッチャーでおそらく最も有名なのがサイ・ヤング。
余りに速い速球を投げるのでついたアダ名が「サイ」(サイクロンの事)。
20勝が15回、30勝以上が5回。
ある年、「サイ・ヤング・デー」というイベントが行われた。
これはサイ・ヤングがいるピリグリムズとオールスターチームを戦わせるというイカした企画。
これを実現するために当日は他のチームは全て試合を行わず、
オールスターチームを結成したというから凄い。
現役22年、登板回数906、完投749、511勝316敗。
この511勝は歴代ブッちぎりで1位。
(2位の記録が416勝、日本記録は金田の400勝)
現在では最も優秀な投手には「サイ・ヤング賞」が贈られている。
「史上最高のショート」ホーナス・ワグナー 1874~1955
オランダ系移民。大柄でガニマタ。
打って良し走って良し守って良しの万能選手。
ホームランこそ少ないが打率、打点、盗塁など多くのタイトルを獲得した。
また難しいとされる三塁打も多く打ち、通算252回は歴代3位。
年間40盗塁を8年連続で達成するその足を、
人は「フライングダッチマン」(空飛ぶオランダ人)と呼んだ。
野球殿堂が作られた時、タイ・カッブやベーブ・ルースと並び最初に殿堂入りが決まった選手の1人。
『私が少年のころ、友人と将来何になりたいか話し合った。
僕は大リーガーに…ホーナス・ワグナーみたいな真のプロになりたい…と言った。
友人はアメリカの大統領になりたい…と言った。
僕たちは2人とも、夢を叶えられなかった。』
(34代大統領・アイゼンハワー談)
「球聖」タイ・カッブ 1886~1961
現役生活24年のうち最初の1年以外は全て3割以上をキープ、
打率4割も3度達成した怪物バッター。
打撃のみならず盗塁センスもあり、盗塁数892は歴代4位。
初めて野球殿堂入りした選手の中の1人。
…とここまでなら素晴らしいバッターで済むんですが…
このカッブ、性格が強烈。
チームメイトですら話しかけるのを恐れるほどで、
試合中にベンチでスパイクをしょきしょき磨いて敵にプレッシャーをかけたり、
野次を飛ばした観客をボコボコにしたり…。
この観客ボコボコ事件でカッブは罰金+出場停止処分を受けるが
それを不服に思ったチームメイトは試合をボイコット。
オーナーは慌てて大学野球のアマ+コーチ2人で即席チームを作り試合に臨んだ。
結果…24対2で敗戦。 そりゃそうだ。
なおこのアマ選手たちも「大リーグで試合をした」とみなされ
アメリカの大リーグ事典には選手として名前が載っているとか。
「人間機関車」ウォルター・ジョンソン 1887~1946
通算417勝という記録を持つ大投手。
あのタイ・カッブが「見えない球が打てるはずない」と舌を巻いたほどの速球投手。
1対0の試合に登板した回数64回、内38回は勝ったというから
相当粘り強いピッチングだった様子。(そして味方の援護が乏しかったとも言える)
初めて野球殿堂入りした選手の中の1人。
「忘れられた名選手」ジョージ・シスラー 1893~1973
連続試合安打41、シーズン通算257安打の記録を持ち、
盗塁王にもなるなどテクニック&スピードの名選手。
ただ当時はベーブ・ルースのようなパワー型が幅を利かせていた時期で
あまり話題に上る事が無かった。
イチローがシーズン通算安打記録を伸ばし始めると、
記録保持者がシスラーである事が判明し脚光を浴びた。
「野球を復活させた男」ベーブ・ルース 1895~1948
野球八百長事件で人気の衰えたアメリカ球界。
それを救ったのがベーブ・ルース。
当時の野球はまだまだ原始的で、バント・フォアボール・エラー・盗塁で点を重ねるのが基本。
しかしベーブ・ルースは長打&ホームランが武器だった。
最初こそ「(簡単に点が取れる)ホームランは野球ではない」と酷評されたが
徐々に人気を得て最終的にはベーブのホームラン見たさに客が集まるほどに。
「ベーブのホームラン数>チームメイト全てのホームラン数」だった年も。
通算714本のホームランは、ハンク・アーロンが抜くまでダントツのトップ。
ベーブの時代が用具的・技術的に決して恵まれた時代で無い事を考え合わせれば
714本は異様とも言える記録である。
奔放な私生活と子供への愛情溢れる態度が有名で、
「病弱な少年にホームランを約束して本当に打つ」
「入場料を払えず球場に入れない子供たちのために、係員に札束を渡す」などのエピソードも。
「プロ野球最速の男」クール・パパ・ベル 1903~1991
当時は人種差別が残っており、黒人はメジャーリーグでは戦えなかった。
その代わり黒人専用リーグとして「ニグロリーグ」があった。
ベルはそんなニグロリーグ伝説選手の1人。
ニグロリーグやメキシコリーグなど9チームを渡り歩いたが
ついにメジャーリーグで戦う事は叶わなかった。
特筆すべきはスピードで、ベース1周が12秒、200試合で175盗塁、
タッチアップで2塁からホームイン、シングルヒットの隙に1塁からホームインなどなど。
同じニグロリーグの英雄サッチェル・ペイジ曰く
「ベルは部屋のライトを消して、部屋が暗くなるまでにベッドに飛び込める」
「世界最高の投手」サッチェル・ペイジ 1906?~1982
サッチェルは肩掛けカバンの意味。
これは荷物運びの仕事をしていたペイジが肩掛けカバンしか見えないほどドッサリ運んでいたため。
ニグロリーグ出身のメジャーリーガーで記録のいくつかが曖昧だが、
それを差し引いても「ウソ~!?」と言ってしまうような逸話が多い。
・オーバー、アンダー、サイドスローの全てが出来た。
・105戦に登板し104勝を上げた。
・わざと9回裏ノーアウトフルベースにして、しかも他の守備選手無しにして投球し、勝った。
最後の試合は何と59歳(60歳とも)で登板し、3イニング投げて無失点!
「黒いベーブ・ルース」ジョッシュ(ジョシュ)・ギブソン 1911~1947
アダ名 ボクサー
ニグロ・リーグでプレイした天才選手。
キャッチャーが指を怪我した時に、観客席にいたジョッシュを無理やりキャッチャーにしたところ
思わぬ才能を発揮し、そのままリーグの選手に。
この頃はキャッチャーミットではなくボクシング用グローブを愛用していたので
ついたアダ名が「ボクサー」。
非公式な試合に出た回数が多いため記録がはっきりしない。
しかし能力は高く、35歳で急死という不幸さえなければ、
様々な記録を塗り替えていたはず…と言われる。
「不滅の記録を持つ男」ジョー・ディマジオ 1914~1999
マイナーリーグ時代は61試合連続、メジャーリーグでは56試合連続で安打を達成。
これはどちらも現在に至るまで抜かれていない。
(日本記録は33試合連続)
紳士的な態度が野球選手の鑑とされ、数々の音楽・小説・映画にも名前が出てくる。
ヤンキース一筋の選手で、死の前年まで始球式を勤めていた。
マリリン・モンローと結婚し新婚旅行で日本に来た事でも有名。
たった9ヶ月の結婚だったが、モンローの死後20年間も墓前にバラを供え続けた。
記者 「マリリンの事を話してくれれば5万ドル払います」
ジョー「世の中には金に換えられないものがある。それは愛の思い出だ」
「打撃の神様」テッド・ウィリアムズ 1918~2002
アダ名 ザ・キッド
メジャーリーグを代表するバッターの1人。
レッドソックス一筋。
41年の最終日までに四捨五入すれば4割の打率.3995を達成。
しかしこの日は1日2試合を行う「ダブルヘッダー」だった。
打てなければ逆に打率が下がってしまうため欠場を勧められたが本人は2試合ともフル出場、
合わせて8打数6安打を叩き出し.406にまで上げた。
これ以降4割バッターはただの1人も出ていない。
文字通り「20世紀最後の4割バッター」。
(日本記録はバースの.389)
そのバッティングを支えたのは優れた動体視力だったと言われ、
演奏中のレコードの曲名が読めたほど。
非常に堅物で、ファンやメディアに媚びなかった。
引退試合でもファンコールに答えず、黙して去った。
この堅物テッドが監督になった時、ソリが合わず日本に行ったのがランディ・バース。
「完全無欠の野球紳士」スタン・ミュージアル 1920~
アダ名 ザ・マン(男の中の男)
元ピッチャーだったが肩を痛め野手に転向。
しかしそれが幸いしたのか打撃の才能が開花。
「物陰からピッチャーを覗き込む」ような独特のフォームで多くの記録を総ナメにする。
圧巻は「1シーズンに1試合5安打を4回達成」。
この4回目を達成した時は左手首を捻挫、右手首にデッドボールという最悪な状況。
カラダに負担をかけないために空振り無しのファールも無し、
つまり1試合5回のスイングで5安打を達成した。
ある年、オールスターゲームに出場したスタン。
試合は延長戦に入る。
スタンが打席に入るとキャッチャーが「…もうクタクタだよ」
スタン答えて「スグにあんたを楽にしてやるよ」
そしてスタンが打った打球はサヨナラホームラン。
漫画か。
「世界のホームラン王」ハンク・アーロン 1934~
アダ名 ハマー
ホームラン数で有名な選手。ベジタリアン。
年間50本打った事は無いが、長年に渡りコンスタントに打ち続けて生涯通算755本を達成。
この記録は2007年にバリー・ボンズが抜くまで不動の記録だった。
1970年、500ホームランと3000安打を達成した時、1塁に駆けつけたのは
なんと50歳になっていた大選手、スタン(ザ・マン)ミュージアル。
この時点で3000本安打を達成した選手で生存しているのはスタンだけだったのだ。
スタンはこう言う。
「今まで本当に孤独だった。おめでとう!」
ベーブ・ルースの714本を超える直前には100万通近い脅迫文が届いた事も。
現在は最強打者に対して贈られる「ハンク・アーロン賞」が出来ている。
歌手のMCハマーは顔がハンク・アーロンに似ている事からハマーと名乗った。
「プエルトリコの英雄」ロベルト・クレメンテ 1934~1972
プエルトリコ出身の大リーガー。
3000本安打を打てる打撃センスも素晴らしいが、特筆すべきは守備力。
ランナー2塁でバント→フラッと上がったボールは前進守備のセカンド頭上を超える→
ライトのクレメンテがキャッチ→サードに送球→アウト!
…など素晴らしい強肩で知られる。
「ニューヨークからペンシルバニアまで届く」
「(クレメンテのいる)ライトに打球が行ったら、進塁を諦めろ」などと評された。
ついたアダ名が「ライフル・アーム」。
慈善活動に積極的で、災害地に物資を空輸していた時に墜落、カリブの海に消えた。
現在でも彼の背番号「21」に憧れる中南米系大リーガーは非常に多い。
また、現在では積極的に慈善活動を行っている選手に「ロベルト・クレメンテ賞」が贈られる。
「頼りになる男」トム・シーバー 1944~
デビューは創立5年足らず、ブッちぎりで連敗していたニューヨークメッツ。
しかし本人の成績は順調で、16勝を上げて新人王。
これは「ライジングファストボール」という決め球があったからと言われる。
圧巻なのは69年。
カブスに9.5ゲーム差つけられていたが、シーバーがなんと10連勝。
逆に9ゲームの差を付けて地区優勝。
そのままプレーオフ→ワールドシリーズまで勝ってしまい、「ミラクルメッツ」と呼ばれた。
シーバーの作った10者連続三振という記録は現在も破られていない。
「最後のスピットボーラー」ゲイロード・ペリー 1938~
本名 ゲイロード・ジャクソン・ペリー
多くのチームを渡り歩いたピッチャーで「両リーグで100勝」「両リーグでサイ・ヤング賞」などを達成。
ボールに唾などを付け摩擦力を無くし無回転ボールを投げる「スピットボール」、
ヤスリなどで表面を傷つけて摩擦力を上げ、異次元変化を生む「エメリーボール」などの使い手。
(もちろんどちらも反則!)
使っている事は間違いないんだがなぜか証拠が発見されず、
バレて退場処分を受けたのは引退する前年の1回だけ。
観客はペリーが登板すると別の意味で注目していたとか。
ちなみにポマード、ワセリン、歯磨き粉、紙ヤスリなどを使っていたとは本人の談。
引退後、ワセリン販売会社を経営。
「最高のナックルボーラー」フィル・ニークロ 1939~
本名 フィリップ・ヘンリー・ニークロ
秘球・ナックルボールの使い手。
ナックルボールはボールに回転を与えないまま投げる球で、
投げる本人ですら変化が読めないという魔球。
球速が遅く盗塁され易い、変化し過ぎて大暴投を生むなど諸刃の剣。
その代わり筋力のいらない球種なので長く現役を続けた。引退は48歳。
40歳以降の勝利数121は大リーグ記録。
通算勝利数は318と立派な数字だったが、なぜか10年間も殿堂入りしなかった。
本人曰く「318勝でも入れないのか?あと何勝すれば入れるんだ?
言ってくれればもう一度マウンドに上がる!」
「オズの魔法使い」オジー・スミス 1954~
パドレス→カージナルスでプレイした名ショート。
打率は低いが守備が神業。
イレギュラーバウンドで高く跳ね上がったボールを素手でジャンピングキャッチ、
そのままファーストに送ってアウト、など。
「バットで1点たたき出す事は稀だがグラブで確実に2点は防ぐ」と恐れられた。
付いたアダ名は「オズの魔法使い」。
守備が優秀な選手に贈られる「ゴールデン・グラブ賞」を13年連続受賞という記録は大リーグ2位。
犠牲フライで2塁からホームインするなど走塁も絶品。
「どうやって守備が上手くなった?」と聞かれた時はこう答えたそうです。
「神が才能を与えてくれたからさ」。
「打った奴は許さない」ロジャー・クレメンス 1962~
160キロ近い速球を投げる通称「ロケット」。
「両リーグでサイ・ヤング賞」「20奪三振の試合を2度」など偉大な記録も多い。
しかし非常に強気な性格で、
折れたバットを投げつける・ビーンボール(バッターにわざとぶつける)を投げるなどの逸話が多い。
とある賞の受賞に関してOBに苦言を呈された時には、
「(あのOBが)まだ現役選手なら良かったのに…
そしたらボールを頭にぶつけてパックリ割ってやるのに」と言い放った。
また、自分の奥さんと草野球をやっていた時、
クレメンスがぽーんと放ったボールを奥さんがコキーンとジャストミート。
怒ったクレメンスが投げた第二球は、奥さんの顔に向かっての超全力ビーンボール!!!
メジャーリーグのピッチャーでおそらく最も有名なのがサイ・ヤング。
余りに速い速球を投げるのでついたアダ名が「サイ」(サイクロンの事)。
20勝が15回、30勝以上が5回。
ある年、「サイ・ヤング・デー」というイベントが行われた。
これはサイ・ヤングがいるピリグリムズとオールスターチームを戦わせるというイカした企画。
これを実現するために当日は他のチームは全て試合を行わず、
オールスターチームを結成したというから凄い。
現役22年、登板回数906、完投749、511勝316敗。
この511勝は歴代ブッちぎりで1位。
(2位の記録が416勝、日本記録は金田の400勝)
現在では最も優秀な投手には「サイ・ヤング賞」が贈られている。
「史上最高のショート」ホーナス・ワグナー 1874~1955
オランダ系移民。大柄でガニマタ。
打って良し走って良し守って良しの万能選手。
ホームランこそ少ないが打率、打点、盗塁など多くのタイトルを獲得した。
また難しいとされる三塁打も多く打ち、通算252回は歴代3位。
年間40盗塁を8年連続で達成するその足を、
人は「フライングダッチマン」(空飛ぶオランダ人)と呼んだ。
野球殿堂が作られた時、タイ・カッブやベーブ・ルースと並び最初に殿堂入りが決まった選手の1人。
『私が少年のころ、友人と将来何になりたいか話し合った。
僕は大リーガーに…ホーナス・ワグナーみたいな真のプロになりたい…と言った。
友人はアメリカの大統領になりたい…と言った。
僕たちは2人とも、夢を叶えられなかった。』
(34代大統領・アイゼンハワー談)
「球聖」タイ・カッブ 1886~1961
現役生活24年のうち最初の1年以外は全て3割以上をキープ、
打率4割も3度達成した怪物バッター。
打撃のみならず盗塁センスもあり、盗塁数892は歴代4位。
初めて野球殿堂入りした選手の中の1人。
…とここまでなら素晴らしいバッターで済むんですが…
このカッブ、性格が強烈。
チームメイトですら話しかけるのを恐れるほどで、
試合中にベンチでスパイクをしょきしょき磨いて敵にプレッシャーをかけたり、
野次を飛ばした観客をボコボコにしたり…。
この観客ボコボコ事件でカッブは罰金+出場停止処分を受けるが
それを不服に思ったチームメイトは試合をボイコット。
オーナーは慌てて大学野球のアマ+コーチ2人で即席チームを作り試合に臨んだ。
結果…24対2で敗戦。 そりゃそうだ。
なおこのアマ選手たちも「大リーグで試合をした」とみなされ
アメリカの大リーグ事典には選手として名前が載っているとか。
「人間機関車」ウォルター・ジョンソン 1887~1946
通算417勝という記録を持つ大投手。
あのタイ・カッブが「見えない球が打てるはずない」と舌を巻いたほどの速球投手。
1対0の試合に登板した回数64回、内38回は勝ったというから
相当粘り強いピッチングだった様子。(そして味方の援護が乏しかったとも言える)
初めて野球殿堂入りした選手の中の1人。
「忘れられた名選手」ジョージ・シスラー 1893~1973
連続試合安打41、シーズン通算257安打の記録を持ち、
盗塁王にもなるなどテクニック&スピードの名選手。
ただ当時はベーブ・ルースのようなパワー型が幅を利かせていた時期で
あまり話題に上る事が無かった。
イチローがシーズン通算安打記録を伸ばし始めると、
記録保持者がシスラーである事が判明し脚光を浴びた。
「野球を復活させた男」ベーブ・ルース 1895~1948
野球八百長事件で人気の衰えたアメリカ球界。
それを救ったのがベーブ・ルース。
当時の野球はまだまだ原始的で、バント・フォアボール・エラー・盗塁で点を重ねるのが基本。
しかしベーブ・ルースは長打&ホームランが武器だった。
最初こそ「(簡単に点が取れる)ホームランは野球ではない」と酷評されたが
徐々に人気を得て最終的にはベーブのホームラン見たさに客が集まるほどに。
「ベーブのホームラン数>チームメイト全てのホームラン数」だった年も。
通算714本のホームランは、ハンク・アーロンが抜くまでダントツのトップ。
ベーブの時代が用具的・技術的に決して恵まれた時代で無い事を考え合わせれば
714本は異様とも言える記録である。
奔放な私生活と子供への愛情溢れる態度が有名で、
「病弱な少年にホームランを約束して本当に打つ」
「入場料を払えず球場に入れない子供たちのために、係員に札束を渡す」などのエピソードも。
「プロ野球最速の男」クール・パパ・ベル 1903~1991
当時は人種差別が残っており、黒人はメジャーリーグでは戦えなかった。
その代わり黒人専用リーグとして「ニグロリーグ」があった。
ベルはそんなニグロリーグ伝説選手の1人。
ニグロリーグやメキシコリーグなど9チームを渡り歩いたが
ついにメジャーリーグで戦う事は叶わなかった。
特筆すべきはスピードで、ベース1周が12秒、200試合で175盗塁、
タッチアップで2塁からホームイン、シングルヒットの隙に1塁からホームインなどなど。
同じニグロリーグの英雄サッチェル・ペイジ曰く
「ベルは部屋のライトを消して、部屋が暗くなるまでにベッドに飛び込める」
「世界最高の投手」サッチェル・ペイジ 1906?~1982
サッチェルは肩掛けカバンの意味。
これは荷物運びの仕事をしていたペイジが肩掛けカバンしか見えないほどドッサリ運んでいたため。
ニグロリーグ出身のメジャーリーガーで記録のいくつかが曖昧だが、
それを差し引いても「ウソ~!?」と言ってしまうような逸話が多い。
・オーバー、アンダー、サイドスローの全てが出来た。
・105戦に登板し104勝を上げた。
・わざと9回裏ノーアウトフルベースにして、しかも他の守備選手無しにして投球し、勝った。
最後の試合は何と59歳(60歳とも)で登板し、3イニング投げて無失点!
「黒いベーブ・ルース」ジョッシュ(ジョシュ)・ギブソン 1911~1947
アダ名 ボクサー
ニグロ・リーグでプレイした天才選手。
キャッチャーが指を怪我した時に、観客席にいたジョッシュを無理やりキャッチャーにしたところ
思わぬ才能を発揮し、そのままリーグの選手に。
この頃はキャッチャーミットではなくボクシング用グローブを愛用していたので
ついたアダ名が「ボクサー」。
非公式な試合に出た回数が多いため記録がはっきりしない。
しかし能力は高く、35歳で急死という不幸さえなければ、
様々な記録を塗り替えていたはず…と言われる。
「不滅の記録を持つ男」ジョー・ディマジオ 1914~1999
マイナーリーグ時代は61試合連続、メジャーリーグでは56試合連続で安打を達成。
これはどちらも現在に至るまで抜かれていない。
(日本記録は33試合連続)
紳士的な態度が野球選手の鑑とされ、数々の音楽・小説・映画にも名前が出てくる。
ヤンキース一筋の選手で、死の前年まで始球式を勤めていた。
マリリン・モンローと結婚し新婚旅行で日本に来た事でも有名。
たった9ヶ月の結婚だったが、モンローの死後20年間も墓前にバラを供え続けた。
記者 「マリリンの事を話してくれれば5万ドル払います」
ジョー「世の中には金に換えられないものがある。それは愛の思い出だ」
「打撃の神様」テッド・ウィリアムズ 1918~2002
アダ名 ザ・キッド
メジャーリーグを代表するバッターの1人。
レッドソックス一筋。
41年の最終日までに四捨五入すれば4割の打率.3995を達成。
しかしこの日は1日2試合を行う「ダブルヘッダー」だった。
打てなければ逆に打率が下がってしまうため欠場を勧められたが本人は2試合ともフル出場、
合わせて8打数6安打を叩き出し.406にまで上げた。
これ以降4割バッターはただの1人も出ていない。
文字通り「20世紀最後の4割バッター」。
(日本記録はバースの.389)
そのバッティングを支えたのは優れた動体視力だったと言われ、
演奏中のレコードの曲名が読めたほど。
非常に堅物で、ファンやメディアに媚びなかった。
引退試合でもファンコールに答えず、黙して去った。
この堅物テッドが監督になった時、ソリが合わず日本に行ったのがランディ・バース。
「完全無欠の野球紳士」スタン・ミュージアル 1920~
アダ名 ザ・マン(男の中の男)
元ピッチャーだったが肩を痛め野手に転向。
しかしそれが幸いしたのか打撃の才能が開花。
「物陰からピッチャーを覗き込む」ような独特のフォームで多くの記録を総ナメにする。
圧巻は「1シーズンに1試合5安打を4回達成」。
この4回目を達成した時は左手首を捻挫、右手首にデッドボールという最悪な状況。
カラダに負担をかけないために空振り無しのファールも無し、
つまり1試合5回のスイングで5安打を達成した。
ある年、オールスターゲームに出場したスタン。
試合は延長戦に入る。
スタンが打席に入るとキャッチャーが「…もうクタクタだよ」
スタン答えて「スグにあんたを楽にしてやるよ」
そしてスタンが打った打球はサヨナラホームラン。
漫画か。
「世界のホームラン王」ハンク・アーロン 1934~
アダ名 ハマー
ホームラン数で有名な選手。ベジタリアン。
年間50本打った事は無いが、長年に渡りコンスタントに打ち続けて生涯通算755本を達成。
この記録は2007年にバリー・ボンズが抜くまで不動の記録だった。
1970年、500ホームランと3000安打を達成した時、1塁に駆けつけたのは
なんと50歳になっていた大選手、スタン(ザ・マン)ミュージアル。
この時点で3000本安打を達成した選手で生存しているのはスタンだけだったのだ。
スタンはこう言う。
「今まで本当に孤独だった。おめでとう!」
ベーブ・ルースの714本を超える直前には100万通近い脅迫文が届いた事も。
現在は最強打者に対して贈られる「ハンク・アーロン賞」が出来ている。
歌手のMCハマーは顔がハンク・アーロンに似ている事からハマーと名乗った。
「プエルトリコの英雄」ロベルト・クレメンテ 1934~1972
プエルトリコ出身の大リーガー。
3000本安打を打てる打撃センスも素晴らしいが、特筆すべきは守備力。
ランナー2塁でバント→フラッと上がったボールは前進守備のセカンド頭上を超える→
ライトのクレメンテがキャッチ→サードに送球→アウト!
…など素晴らしい強肩で知られる。
「ニューヨークからペンシルバニアまで届く」
「(クレメンテのいる)ライトに打球が行ったら、進塁を諦めろ」などと評された。
ついたアダ名が「ライフル・アーム」。
慈善活動に積極的で、災害地に物資を空輸していた時に墜落、カリブの海に消えた。
現在でも彼の背番号「21」に憧れる中南米系大リーガーは非常に多い。
また、現在では積極的に慈善活動を行っている選手に「ロベルト・クレメンテ賞」が贈られる。
「頼りになる男」トム・シーバー 1944~
デビューは創立5年足らず、ブッちぎりで連敗していたニューヨークメッツ。
しかし本人の成績は順調で、16勝を上げて新人王。
これは「ライジングファストボール」という決め球があったからと言われる。
圧巻なのは69年。
カブスに9.5ゲーム差つけられていたが、シーバーがなんと10連勝。
逆に9ゲームの差を付けて地区優勝。
そのままプレーオフ→ワールドシリーズまで勝ってしまい、「ミラクルメッツ」と呼ばれた。
シーバーの作った10者連続三振という記録は現在も破られていない。
「最後のスピットボーラー」ゲイロード・ペリー 1938~
本名 ゲイロード・ジャクソン・ペリー
多くのチームを渡り歩いたピッチャーで「両リーグで100勝」「両リーグでサイ・ヤング賞」などを達成。
ボールに唾などを付け摩擦力を無くし無回転ボールを投げる「スピットボール」、
ヤスリなどで表面を傷つけて摩擦力を上げ、異次元変化を生む「エメリーボール」などの使い手。
(もちろんどちらも反則!)
使っている事は間違いないんだがなぜか証拠が発見されず、
バレて退場処分を受けたのは引退する前年の1回だけ。
観客はペリーが登板すると別の意味で注目していたとか。
ちなみにポマード、ワセリン、歯磨き粉、紙ヤスリなどを使っていたとは本人の談。
引退後、ワセリン販売会社を経営。
「最高のナックルボーラー」フィル・ニークロ 1939~
本名 フィリップ・ヘンリー・ニークロ
秘球・ナックルボールの使い手。
ナックルボールはボールに回転を与えないまま投げる球で、
投げる本人ですら変化が読めないという魔球。
球速が遅く盗塁され易い、変化し過ぎて大暴投を生むなど諸刃の剣。
その代わり筋力のいらない球種なので長く現役を続けた。引退は48歳。
40歳以降の勝利数121は大リーグ記録。
通算勝利数は318と立派な数字だったが、なぜか10年間も殿堂入りしなかった。
本人曰く「318勝でも入れないのか?あと何勝すれば入れるんだ?
言ってくれればもう一度マウンドに上がる!」
「オズの魔法使い」オジー・スミス 1954~
パドレス→カージナルスでプレイした名ショート。
打率は低いが守備が神業。
イレギュラーバウンドで高く跳ね上がったボールを素手でジャンピングキャッチ、
そのままファーストに送ってアウト、など。
「バットで1点たたき出す事は稀だがグラブで確実に2点は防ぐ」と恐れられた。
付いたアダ名は「オズの魔法使い」。
守備が優秀な選手に贈られる「ゴールデン・グラブ賞」を13年連続受賞という記録は大リーグ2位。
犠牲フライで2塁からホームインするなど走塁も絶品。
「どうやって守備が上手くなった?」と聞かれた時はこう答えたそうです。
「神が才能を与えてくれたからさ」。
「打った奴は許さない」ロジャー・クレメンス 1962~
160キロ近い速球を投げる通称「ロケット」。
「両リーグでサイ・ヤング賞」「20奪三振の試合を2度」など偉大な記録も多い。
しかし非常に強気な性格で、
折れたバットを投げつける・ビーンボール(バッターにわざとぶつける)を投げるなどの逸話が多い。
とある賞の受賞に関してOBに苦言を呈された時には、
「(あのOBが)まだ現役選手なら良かったのに…
そしたらボールを頭にぶつけてパックリ割ってやるのに」と言い放った。
また、自分の奥さんと草野球をやっていた時、
クレメンスがぽーんと放ったボールを奥さんがコキーンとジャストミート。
怒ったクレメンスが投げた第二球は、奥さんの顔に向かっての超全力ビーンボール!!!
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